大鏡山南蔵院

●怪談・乳房榎 ―序章―

 高田の『大鏡山南蔵院』『雌竜雄竜』の墨絵の天井画がある。
 これを描いた菱川重信とは、元秋元越中守のご家中で250石を取った間与島伊惣次というのが実の名。 生得絵が好きで、またちょっと描く絵がまるで生きているようだと高名を慕い、 絵を描いてほしいとの頼み手が方々からあった。
 ところが、いつの世にもこれをやっかむ者がいるもので、まもなく公儀からお糺があり、間与島伊惣次は何も落ち度がなかったにも拘わらず、ついに永のお暇となってしまった。
 しかし元が250石ゆえ、柳島にある大商人の寮を求めて、そこへ引き移ってからは 何不自由なく、好きな絵を描いて暮らしていた。

 年は三十七。美男ではないが、立ち居振る舞いが立派で、品のいい人だった。
 また妻のおきせは役者に似ていると噂されるほど美しく、年は二十四だったが、器量のいいせいか二十歳ぐらいにしか見えない。
 夫婦仲は至って睦まじかったが、なかなか子供に恵まれなかった。
 それでも、願込めなどを懸命やったおかげか、宝暦元年の正月元日にようやく赤ん坊が生まれた。 しかも男の子とあって、重信はたいそう喜び、真与太郎と名づけて、この一人子を慈しんで育てていた。

 その年の三月――向島の桜が真っ盛りで、15日の梅若に花見がてら参詣しようと、 重信とおきせは下男正介と下女のお花を供に、真与太郎をお花におぶさせて、ぞろぞろ出かけていった。
 その帰り道、一向は小梅の馴染みの茶屋へ寄って行った。
「どうした、ばあさんいそがしいかの」
 重信が声をかけると、
「おやまあ、どなた様かと存じましたら、柳島の先生様、御新造様、坊ちゃんをお連れなさいまして、 お花見でござりますか。それはまあよくおいでで…。正介さんもお花どんもお供で御苦労様。 今日は梅若様の涙雨って昔から言いまして雨が降るもんでございますが、まあ降りませんで、よいご都合で。 お子様をお連れあそばして、道で降られなすってごらんあそばせ、それこそたいへんでございます。 おや、まだお礼を申し上げませんで。せんだってはまことにけっこうなお菓子をたくさん下さいましてありがとうございます。内のじじいなんぞは生まれてからあんなけっこうなお菓子は見たことがないと申して喜びましてさ、ありがとうございました。
 さあお茶をひとつ。もういけない渋茶でございます」
と、一人で話しているにまかせて、一同は床机へ腰をかけて、足を伸ばした。
 そのうち重信は、隅のほうに腰を掛けて、後ろ向きに弁当を食べている男に気がついた。
「おいおい、そこにいるのは竹六じゃあないか」
「いよ、これはどなたかと存じましたら、柳島のお先生様、御新造様、坊ちゃんをお連れあそばしてお花見。 どうもまことにおきれいで。いえ存外御無沙汰をいたしました。 いよ、これは正介さん、お花さんいつもお美しいね。 今日は御新造様のお供で、白粉をおつけなさるとふだんとは違うよ、器量がずっと上がるからおかしい」
 などと如才ないから下男下女にまで世辞を振りまいている。

 竹六は、浅草田原町に住む地紙折りで、扇の地紙と骨を箱へ包んで背負っては花見などの場所へ商いをしている。 当時、絵や書、詩歌などを扇へ書くことが流行っていて、それをすぐにその場で折って、骨をさして完成させるという仕事なので、重信とは特別懇意になっていた。
 重信は、これは良い所であった、頼みたいことがあるから明後日にでも来るように、と茶代をいくらか遣わして、赤ん坊がいるものだから早々に帰っていった。
 竹六は重信の影が見えなくなるまで見送り、
「いつ見ても、あの御新造さんはお美しいねぇ」
 などと、茶屋の婆さんと褒めていたところ、
「ちょっと承りたい」
 と、浪人体の男に呼びかけられた。
 出し抜けに声をかけられたものだから、竹六はびっくりして
「へへぇ、何か粗相を致しましたらごめんくださいまし。後ろにおいでになさいますのを少しも存じませんもんで、失礼を致しました――」
 何だかわからぬまま、しきりに謝った。
 すると侍は八丈の紐を解いて、かぶっていた笠を取った。

 年のころは二八、九といったところで、鼻筋の通った、色の黒い痩せぎすな侍で、斜子かなどの紋付で、お納戸献上の帯に、短い大小をさしていた。
「いや。今、あそこへ行かれたお方は何と申す絵描きの先生じゃな」
「へえ、あれは菱川重信先生とおっしゃるお方で、ほんのお内職同様になさるので、お気に向かなければお描きになさいませんが、ずいぶん御名人でいらっしゃいます」
 侍は本所撞木橋の磯貝浪江と名乗り、絵が好きで、師を探しているのだと話した。
 竹六は、人品がよく、第一金銭に困りそうもないりっぱな侍とあって、世話をしておけば後々にも良かろうと思い、如才なく承知した。
 幾らかの手間賃を頂戴した竹六は、翌々日、さっそく浪江を連れて重信に弟子入りの話を持ちかけたところ、重信の方でも前々から片腕となる弟子がほしいと思っていたので、話はすぐにまとまった。

 浪江は少しは下地があり、なお器用な質で、毎日通ってくるのも重信は喜んだ。
 また、一人息子の真与太郎を頻りとかわいがるので、母であるおきせも自然と快く思い、 加えて、下女のお花にも折々かんざしや前垂れなどを買ってやるので、 お花は方々で浪江を褒めちぎっていた。
 しかし、これらは全て浪江の計算ずくの所業だった。


TOPへ




100MB無料ホームページ可愛いサーバロリポップClick Here!