大鏡山南蔵院

●怪談・乳房榎 ―『雌竜雄竜』の章―

 この年の五月五日、端午の節句であちらこちらに吹流しの鯉などが上がっている中を、重信を尋ねて二人の男がやってきた。
 ひとりは、小石川原町の酒屋・万屋新兵衛と名乗り、もうひとりは高田砂利場村のお百姓で茂左衛門といった。
 重信は面識がないものの、おおかた絵のことであろうからと絵皿を片付けて、二人を部屋へ通した。
「先生様の御高名をお慕い申しまして願いたいと申しまするは、てまえが檀那寺で
 高田砂利場村『大鏡山南蔵院』といいます真言宗の寺がございまするが、今度
 本堂から庫裏は申すに及びませんが、薬師堂まで普請出来になりました」
 商人だけに新兵衛は心得て願い出る。
「それでその天井や杉戸襖などへ絵を描いていただきたいと両人、寺の世話人でござ
 いますが、そろいまして願いに出ましてございます」
 重信は以前から一度、天井画なども描いてみたいものだと思っていたので、すぐに承知した。
「天井とはたいていの絵師は飛竜だとか一匹の竜とかを得てしたたむるもんじゃが、
 拙者は『雌竜雄竜』(めりゅうおりゅう)と二匹を墨画で描いてみたいと思うが…
 どうじゃ」
「なるほど。よく堂宮の天井には、八方にらみの竜がお定まりで描いてございます
 が、先生は『雌竜雄竜』と二匹描いてくださると、それはお珍しい」
「ならば早速明後日あたりから取り掛かるといたそう」
「それにつきまして先生にお願いが……その高田からこの柳島まで、襖や杉戸などは
 ともかくも、天井を持ってまいるというわけにも参じませんから、はなはだ恐れ入
 りますが、本堂もいたって広うござりますから、お泊りがけにいらっしゃっておし
 たため下さいますないか」
「なるほどごもっともじゃ。よろしゅうござる。かえって宅より気が散らんでよい」
 快い重信の返事に、新兵衛は世話人から預かった金子二十両を手付金として渡し、道も遠いのでと早々に帰っていった。

 それから、重信は約束どおり五月七日の朝、下男の正介に絵の具箱と着替えの衣類などをひとまとめにした包みをしょわせて、高田の南蔵院へ赴いたのだった。

 さて、重信の留守中は、おきせと真与太郎と下女のお花ばかりで、さぞ寂しかろうと、磯貝浪江は地紙折りの竹六と毎日のように見舞いに来ていた。
 昼のうちは竹六が如才なく話をしては笑わせるのでずいぶん賑やかだが、夕方になると帰ってしまうので、田畑の多いこの辺りは実に寂しくひっそりとした。
 そんなある日のこと、いつものように浪江と竹六が来て、この日は暑気払いと泡盛やら御酒が振舞われた。
 竹六は飲む口だからずぶろくに酔って、もう宵の口だから帰ろうと浪江が誘うが、なかなか腰が重い。
 それでも、肩を貸して共に帰ろうと言う浪江に「帰る方向が違いますよ」と立ち上がり、今度は一杯機嫌の急ぎ足で行ってしまった。
「いや困った奴でござりますな。御酒を頂くと、平生とはガラリと変わりしつこくな
 りますから、まことに。 いえ、わたくしもおいとまをいたしましょう」
と、後に残った浪江も帰ろうとしたが、
「あいたたたた」
 門を出たとかと思うころ、横腹を押さえて小戻りをし、玄関の敷台の上へバタリと倒れた。
「どうかなさいましたか」
 おきせもお花も驚いて駆け寄った。
「むむ苦しい、わ、わたくしは、折り節かようなことが。てまえの薬入れの中に熊の
 肝がござりますから、どうぞお湯をひとつ、く、くください」
 男の癪とみえて、浪江の顔は見る間に青くなり、油汗をかいて苦しんでいた。
 ふだんから親切な浪江のこと、おきせは介抱を辞退しようとする浪江を奥の客間へ連れて行き、お花は蚊帳を釣って、小掻巻きを出し、枕元の煙草盆に白湯を用意し、さらに浪江の胸を摩ったりとまめまめしく介抱した。
 しばらくすると癪も落ち着いた様子で、浪江はすうすうと寝入ったようだった。
 目が覚ましてまた差し込みを起こしてはいけないと、病人を起こさないように二人はそっと部屋を出た。
 お花は一間隔てた自分の部屋で、病人を目敏く看ていようとしたが、疲れているから床に入るや否やすぐに寝入ってしまった。
 おきせの部屋はそこから四尺ほど廊下を隔てた先で、よく眠っている真与太郎を起こさぬように、おきせはそっとその傍らに横になった。

 それからどのくらいの時が経ったのか――むっくりと起き上がった浪江は、脇差を一本手に持ち、おきせの部屋へと向かった。
 蚊帳の中では、器量よしのおきせが真与太郎を抱いて、添え乳をしながら寝ているのが見えた。根が大胆な浪江は、たまらずに蚊帳をまくり、中へ入った。
 人の気配に、おきせはハッと飛び起きた。
「あれまあ!あなた、何でここに」
 驚いておきせは声を上げた。
「これさ静かになさい、しいしい」
 浪江はおきせを静かにさせようと、わざと落ち着き払って話をした。
 ――忘れもしない三月十五日、初めて見かけたその時から命をかけて惚れたこと。先刻の持病の癪というのはすべて仮病。元より道ならぬ不義とは承知の上で、思い詰めた挙句、こうせずにはいれなかった。  どうか不憫と思って、たった一度でよいから望みをかなえさせて欲しい――などと滔々と語った。
「まあ、あきれてものが言えない」
 おきせは憤慨した。
「仮にも夫重信はあなたの師匠。その妻に恋慕なさるとは見下げ果てたお人だ。
 そんなお方を弟子にしたのは夫のあやまり。
 浪江様は親切なお方と心を許したのはわたしの見違え。
 もうもう、あなたの顔を見るのも嫌でございます。
 さあ、どうぞすぐに帰って下さい。これ、花やぁ!」
 立ち上がってお花を呼ぼうとするおきせの袂を、浪江はしっかりと捕らえ、
「これほどに事を分けて申しても、聞き入れられんか。
 ならば、てまえも存じ寄りがござる」
と、持っていた脇差をひねった。
「いやだと言って恥をかかされては、このままにうっちゃってはおかん。
 おまえを刺し殺して切腹いたす。それでも、うんとおっしゃらぬか」
と、わざと鯉口をくつろげて脅すが、おきせも侍の妻で
「お斬りなさい。たとえわたくしの身があなたのお手にかかり殺されましても、
 操は破られません。
 さあ、お斬んなさい!」
と、一歩も引かない。困った浪江は
「そう強情をおっしゃるなら、こういたす」
 スラリと刀を抜いて、そばで寝ていた真与太郎の胸に手をかけて、切っ先をその首へ向けた。
「お待ちなさい。あなた何を…」
「あなたを殺す代わりに、このかわいいお子を刺し殺し、後で切腹いたす所存でござ
 る。これもてまえが相果てた後、頼みをかなえぬばかりに、たった一人の我が子を
 殺さしたと後々思い出すようにするのだ」
 子供を人質に取られて、おきせは「うん」というより他はなかった。
「それではたった一度ですよ。一度であきらめてくださいまし」
「よろしい。拙者も武士の端くれ、二度とは申さぬ」

 だが、一度そういう仲になると、浪江はなおなおおきせが恋しくなり、「先生のお見舞に」だの「つい近所まで参ったからお訪ね申した」だのと、何かと用にかこつけては上がり込み、いろいろごまかしては泊まり込んだ。
 何も知らないお花は、相も変わらず浪江を丁寧にもてなす。
 おきせはまた、この間のように真与太郎を刺し殺そうとするのでは──と思うと嫌と言えず、二度三度と枕を交わしてしまう。
 そうして度重なれば情が湧き、しまいにはおきせの方から誘うようになった。

 しかし──
  おきせと深い仲になれたものの、夫の重信が帰れば、それきり逢うことはできない
     ──ふと浪江に悪心が湧いた。

 六月のある暑い日、菓子折りを持って浪江は高田の砂利場村の大鏡山南蔵院へ師匠の見舞いにやってきた。
 小坊主から下男の正介に取り次がれ、玄関脇から座敷へと通された。座敷の先の本堂には件の天井画が描きかけであった。 重信は杉戸や襖などの彩色ものは後回しにして、雌竜雄竜に精魂込めていた。 ようやく雄竜のみが出来上がり、雌竜の右手を描いている途中であった。
「これはなるほど生きているようで」
 さしもの浪江もこの絵の迫力には恐れ入った様子で、彩色ものを手掛けるときには手伝いに参じると約束し、挨拶のみと早々に身支度をした。
「先生、今日は早稲田の親族のところへ寄ります約束がござります故、これでお暇
 を。それから正介どのへ、ちと上げたいものがござりますから、ちょっとお借り
 申してもよろしゅうござりましょうか」
「なに、かまわぬが。
 これ正介や。なにか浪江殿がそちの上げたいものがあると言わるるから、ご一緒
 にまいるがよいぞ」
 主の了解を得た正介は浪江に連れられ、馬場下町の花屋という料理屋へ入った。

 二階の座敷に上がると、浪江は酒に肴と大いに振る舞った。
 正介が遠慮をせぬようにと、師匠への土産に刺身や煮魚に香の物を添えた折り詰を作らせるのも忘れない。長く寺泊まりをしていて、酒も魚もとんと御無沙汰だった正介はうまいうまいと喜び、浪江様は実によく気のつくお人だと感心した。
「正介どん、実は今日わざわざ、おまえをここに招いたのは、ちと話があることさ」
 程良く酔いのまわった頃、徐に浪江は切り出した。
「今日ここへ招待したのは他でもない。
 どうもおまえは正直者で、折々ご主人様の先生へさえ、間違ったことだとつけつけ
 小言を言う。おもしろい気前で、どうもあれはできんよ。
 それだからわたしはおまえのような人と縁をくみたいと思ってここへ呼んだのだ。
 ここでわたしと伯父甥の杯をして、親類になってはくれんか」
「なに、おめえさま、親類になれって。
 そりゃあ、おめえさま、おれが百姓だからって嬲っちゃあいけません」
「なに、そんな嬲るなどということは申さぬ」
 浪江は懐から五両を取り出し、紙へ包んで、正介に差し出した。
「わけというのはだな、この浪江、谷出羽守の家来で少々は録も頂いておった者じゃ
 が、生得わがまま者で、窮屈な武家の勤めが嫌でならんから、暇をもらい浪人いた
 しておる。少々の蓄えもあり、独身ゆえに何もあくせくするにも及ばぬが、将来の
 ことを考えれば、今のうちその蓄えの金子で田地を買って、その利得でこう気楽に
 いたしたいと思うのだ。しかし、弓馬槍剣の路と違って田地のことは知らんゆえ、
 それでおまえを伯父に頼み、相談相手になってもらいたいのじゃよ」
「えれえ……いや、おめえさまえれえ。ええ、わしィ骨折ってやるべい。
 はばかりながら田地田畑のことなら目利きだ。ええ、やるべい、やるべい」
 ますます感心した正介は、気分よく酒をすすませた。
 頃合いを見計らった浪江は、いよいよ話の核心へ切り出した。

     実は―― と話したのは、おきせとの密通のこと。
               それから恐ろしい計画の一切を――

 浪江に心腹を明かされた正介は、酔いも覚めて歯の根もあわぬ程ガタガタ震えた。目の先には、鯉口を緩めた脇差があった。

 南蔵院へ戻った正介は、かなり飲んだはずなのに、顔色は真っ青で、まるで酔った風がなかった。それというのも、浪江にあんな恐ろしい計略を聞かされては――

「先生様、今帰りました」
 今宵は厳しい暑さで、重信は団扇を持って縁端で涼んでいた。
「おお、正介か。浪江はいかがいたしたな」
「へい…あの浪江様は……あの急に御用ができて帰りますから、この肴を先生へ土産
 だといってあげてくれって…」
と、正介は折り詰を差し出した。
「おおさようか、何かこれは御馳走じゃな。
 まことあの浪江ぐらい気の付く男はないの。わしが菓子が好きなゆえ、先刻は金玉
 糖をたくさんくれたが、また魚が不自由だろうと思ってこのような……どうも親切
 な男だのう、正介」
「へえ、まことに親切で… あの先生… 浪江様がそう申したっけが、あんまり先生
 が凝って夜なべまでなすっては、却ってお体の毒になりますだから、たまには目の
 保養をなせえって…
 今夜あたりはめっぽう暑くって蒸しますから……ええと…
 落合へ蛍を見物においでなすってはどうでございます。おれ、お供しべい」
浪江に教わった通りに、正介は言った。

 落合の蛍といえば、大粒で、それはみごとなものだと噂に聞いていた。
 それは良いと、重信はさっそく着替えて、浪江にもらった折り詰を提げて出かけた。

 空は雨気をもって、今に雨でもかかりそうな少し荒い雲行きだった。
 しかし、蛍狩りには暗い方が光が映えて良いようで、なるほど噂どおりに大粒の蛍が、まるで明星が空を乱れ飛ぶように舞っていた。
「正介、よい景色じゃな。
 あの大粒の蛍が、あれあれ飛び交う有り様は絵には描けぬの」
「ほんとうにそうでごぜえます。ああ…南無阿弥陀仏……」
 これから起こる恐ろしいことを思うと、

正介には蛍が人魂のように見えてならなかった。

 重信は下戸といっても全く飲めないわけではない。
 蛍見物をしながら持ってきた瓢の酒を少しばかり飲んでいたが、帰る頃には足元がおぼつかなくなっていた。
「ああよい心持ちじゃ。これ正介、早く来んか」
 神田川にかかる田島橋を渡ると、傍らは一面の藪で、片側の櫟林の下に茂った夏草から虫や蛙の音がうるさく、正介が念仏を唱えるのをかき消していた。
(螢見物に灯りはいらぬ。先生を先に行かせば間違うことはない)
 浪江の指示もあったが、足が震えてなかなか進めない。
  ──と橋を渡ったその時!
 藪の中から竹槍を持った磯貝浪江が、重信をめがけ突っかけた。
 重信は太股を突かれたが、神影流の名人だけあって蹌踉めきながらも腰の脇差しをすらりと抜いて、
「おのれ狼藉、何者じゃ。姓名も名乗らずに卑怯な」
と正眼にぴたりとつけた。
 浪江も手早く竹槍を捨て、一刀を引き抜き、振り上げはしたものの、打ち込む隙がない。手ぬぐいで隠した顔の奥から、正介に合図した。
 正介は浪江が睨んでいるのが見えて、怖さの余り目をふさいで木刀を振り上げた。
「ごめんなせえ、許してくだせえ」
 うしろに敵はないと思っていたところへ不意に頭へ一撃を食らったものだから油断が生じた。浪江は重信の足を払い、あっと蹌踉めく重信を、横手なぐりに肋骨から腰の番へ深く切り込んだ。
「貴様は早く逃げて帰れ。
 かねて申し含めたとおりにいたせよ」
 浪江に言われて正介は、弁当箱も瓢箪もそこらへ落として、南蔵院まで走りに走って逃げた。

  ドンドンドンドンドンドン!
 壊れるように門を叩かれて、所化と小坊主が目を覚まして扉を開けた。
「随連様、たいへんだよ、たいへんだよ」
「正介さんか、たいへんとは何事だえ」
「た、たいへんだ……先生様が道で狼藉に出会って、こ、こ、殺されたたぁ」
「何をそんなに咳き込んで……冗談を言うのだよ」
「冗談どころか、先生と狼藉者と……斬り合って、落合の田島橋のなだれで」
「それがわからない。
 先生はもうとうにお帰りになって、本堂で夜なべをしておいでだ」
「え……先生様が帰ったって?そんなうそを言っちゃあいかねえ」
「疑るなら本堂へ行って見なさい」
 所化の隋連が嘘をつくはずがない――とすれば、もしや間違えて浪江様をぶっ叩いてしまったのでは――いやいや「早く帰れ」と言ったのは浪江様の声だった――。
 正介は恐々ながら本堂を覗くと、いつものように立て回した障子屏風へ、重信の影が蝋燭の灯りに照らし出されていた。
 ぶるぶる震えながらも正介は、指の先へ唾をつけて障子屏風へ穴を開け、中を覗くと……菱川重信という落款を書き終えて、筆を傍らへ置き、印をウンと力を入れて押している様子が見えた。
 しかし、その重信の姿は痩せ枯れて、髪も乱れてものすごく
「正介、なにをのぞく」
 ゆるりとこちらを振り向いて言ったその一声は妙に腹の腸に響いた。
「あっ」
 思わず正介が倒れこむと、その途端にかんかんとしていた蝋燭がふっと消えて、
辺りは真っ暗闇に……
 所化の隋連も小坊主も、突然のことに我知らず大声を上げた。
 その声を聞きつけ和尚様や寺男も駆けつけたので、そろって本堂を窺うと――

重信の姿はどこにもなく、
かわりに描き残していたはずの雌竜がみごとに出来上がっていた。
手につくように濡れている墨は、
まさしく今描いたばかりであるのを物語っていた――。


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